プチ・シニアの明るいひきこもり生活

経験的考察:知ったがゆえの恐怖と知らないがゆえの恐怖

      2015/08/30

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Dengue community education poster – Goodbye dengue

 「デング熱」が流行っている。流行っているという割には人数は少ないけれど、40数年ぶりに日本で発症したというのはショッキングだ。「蚊」という身近な存在が媒介というのも、これだけ大騒ぎになる原因のひとつだろう。

普通に日本で生活している人にとっては、「デング熱」という言葉さえ初めて聞く言葉だろう。なにせ40数年ぶりだ。知ってるほうがおかしい。
でも、アジアを旅行する人にとってはよく聞く言葉だ。ベトナムやらタイやらマレーシアやら、外務省の「危険情報」を調べるとたいてい「デング熱」に注意って書いてあった(確認していないので、今載っているかは不明)。

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 それでも、いつも「大丈夫だろう」と思って行っていたし、現に一度もデング熱にかかることもなかった。もちろん、蚊には何度も刺されていたわけだけれど。
 意識としては、「デング熱」なんてものは存在しないくらいの感じだった。そういうのがあると知らされても、”realize” してなかった、つまり、「リアルに」その存在を捉えていなかったのだ。

 だから、アジアに行く時に一度も「デング熱」が怖いなどと思ったことはなかった。

 ところがだ。今回のこの騒動で、「デング熱」の「リアル度」が、言ってみれば、ゼロから70パーセントくらいに上がってしまった。今度、行く時には、必ず人からも「デング熱」に気をつけて、と言われるだろうし、蚊に刺されれば「デング熱ではあるまいな」という不安が浮かぶことはもう避けられないだろう。

 知らない時は、蚊に刺されてもただムヒとか塗って済ましていたのに、これからは、必ず一抹の不安がつきまとうことになるのだ。

「知る」というのは、恐怖や不安が増すということでもあるわけだ。

 でも、知らない、分からないための恐怖もある。

 インドのバラナシ(ベナレス)でガンジス川沿いのホテルに泊まった時だ。ホテルと言っても安普請で、ベランダから下にガンジス川が見下ろせるのくらいが唯一の利点のホテルだった。

 日が暮れるまではベランダに座って、タバコを吸いながらガンジス川の流れを眺めていたものだった。ただ、日が暮れるとベランダにはいられない。何故かと言うと、「お客さん」が毎日のようにやって来てくつろいでいたからだ。

 最初人かと思って驚いたのだが、猿だった。しかも、かなりでかい。しかも、3匹だ。彼らは、まるで自分の家にいるかのように堂々としていた、というか、警戒感ゼロでだれていた。日光の猿の例もあるので、とりあえず刺激しないように朝を待った。朝になってベランダを見ると、もちろん彼らはいなかったが、おみやげのように「糞」が転がっていた。

 ホテルのボーイ、というか、使用人を呼んで、事情を話すと、「ノー・プロブレム」といって箒とちりとりで糞を片付け、「彼らは攻撃しないから大丈夫だ」と笑いながら言った。
 攻撃しないと言っても友達になれるわけでもないので、夜は刺激しないようにベランダには出ないことにした。

 長いけれど、実はここまでは前置きだ。失礼。

 ある晩、暗くなってからタバコをベランダに置き忘れたことに気づいた。しかし、そろそろ猿がやってくる時間である。朝まで我慢するのは辛かった。ちょっと様子を伺い、素早くタバコを取りにベランダに出た。タバコを掴み、また素早く部屋に入ろうとしたその時だった。

 足に激痛が走った。私は裸足だった。

「痛い!」そのまま、倒れるように部屋に戻った。

 痛いけれど、特に傷はないようだ。足の痛みが走ったあたりを見てみる。しかし、特に傷はない。いや、ちょっと赤い点があるようかもしれない。しかし、痛い。

 今考えると、暗闇で、突然の痛みのために、実際の痛みよりも数倍増幅されて感じてしまったのかもしれない。今冷静に考えると、それほど大したことなかったような気がする。蜂に刺されたくらいか・・・。

 しかし、そうこうするうちに、足の、その痛む部分がみるみる腫れてきた。ヤバい。まだ、痛い。

 私は恐怖に慄いた。なにせ、暗闇の中で、何だかわからないのに刺され、しかも、なんとそこはインドなのだ。私はとっさに「サソリ」を思い浮かべた。よく映画の中で拷問に使われるサソリだ。いや、いったい、インドにサソリはいるのか?あっ、コブラならいるはずだ。いや、コブラならもっとしっかり歯痕がつくだろう。

 つまり、私が恐怖に慄いた最大の理由は、痛みではなく、まさにその正体がわからないものに刺されたという事実だった。

 幸いなことに、どうしようか考えているうちに、痛みも患部の晴れもひいてきた。たぶん「ノー・プロブレム」だ、自分にそう言い聞かせ、寝ることにした。

 翌朝、ちゃんと目が覚めた。いや、目覚めない可能性だってゼロではなかったのだから、これは喜ばしいことだ。痛みも腫れもほとんどなくなっていた。

 早速、私はベランダに出た。犯人(人じゃないけど)の痕跡を探すべく、目を皿のようにして調べてみた。しかし、何も見つからなかった。

 それから、もう15年経つ。もう、笑い話にもならない。

 しかしだ、

 あの時、得体のしれない生物によって私の身体に注入されたウイルスが、まるで時限爆弾のように明日活動し始め、死に至らしめるっていう可能性もゼロだって誰が言い切れるだろう? だって、わからないんだから、なんだったか。

 つまり、知らない、分からないというのもやはり恐怖を生み出すことがあるのだ。

 (念の為に書いておくと、上に書いたことは全くの真実だけれど、比喩的に読んでもらえるといいかなと思います。)


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 - 消えそうな旅の断片

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