「卒業」を久しぶりに見てわかったこと、あるいは、ミセス・ロビンソンって最高だな
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「卒業」を見た。何回めだろう?多分10回以上は見てるな。初めて見たのは中学生の時で、その時すでにリバイバルで画面には今では見られなくなった傷、当時は雨が降ってるって形容された傷がいっぱい入っていた。
私は、いわゆるアメリカン・ニューシネマというのが大好きで、私の精神構造というか、世の中の味方に多大な影響を受けているのだけど、この「卒業」は例えば、「真夜中のカーボーイ」(結構気に入っているのにあまり読まれない鑑賞記事)とか「俺たちに明日はない」とか、もちろん「イージー・ライダー 」とか、そういうのに比べて、すごい好きと表明しづらいところがあった。
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「卒業」では、主人公の悲劇的な死もないし、ドラッグも出てこないし、バイクも出てこない。表立っての社会やエスタブリッシュメントへの反抗もない。
なんか、「かっこいいんだよ」、いや、若者の「スゲー、カッケーッ」と叫べる部分が少ない。
そもそも、ダスティン・ホフマンもいわゆる「かっこいい」を売りにする役者じゃないし。このベンジャミンもいいとこのお坊ちゃんだし、成績抜群のエリートだし、・・・。
ただ、エレーンに説明するこんなセリフがある。
It’s like I was playing some kind of game, but the rules don’t make any sense to me. They’re being made up by all the wrong people. I mean no one makes them up. They seem to make themselves up.
まるでなんかのゲームをしている感じさ、でも、そのルールが全然ピンとこないのさ。まるで、おかしな人間に作られたルールみたいでさ、いや、誰も作っちゃいないんだな、ルールそのものが勝手にできあがった見ないな感じさ。
やはり、彼が他のアメリカン・ニューシネマの主人公みたいに、社会への違和感、疎外感を持っていたことがわかる。
ただ、彼にはその正体がよくわかっていなかったから、親から「これからどうするつもりだ?」と聞かれて、ただ「わからない」としか答えられなかったのだ。
そこに、ミセス・ロビンソン登場。
ミセス・ロビンソンは、まぁ、ベンをたぶらかした悪女的に捉える人もいるかもしれないけれど、それは違うな。
ミセス・ロビンソンは、ベンの目を覚ましてやったのだ。性的って意味じゃなく、彼女はベンを大人にしてあげたのだ。社会という制度 or システムを気づかせてあげたのだ。
ご存知のように、この映画のサントラはサイモンとガーファンクルによるもので、常識的には「サウンド・オブ・サイレンス」が一番有名で一番の名曲だと認識されているけど、あれはこの映画のために作られたわけではない。
はっきり言って、このサントラの中で一番大事な、そして一番の名曲は「ミセス・ロビンソン」だ。ポール・サイモンもそのことがわかって、これほどの名曲を作ったのだ(と思う)。いやぁ、彼らの曲の中ではあんまり人気ないけど、これは名曲ですよ。
てな訳で、そのミセス・ロビンソン、演じるのはアン・バンクラフト。「奇跡の人」でサリバン先生役もいいけど(別記事)、やっぱ私は大人の色気むんむんのこの役の方が好きだな。
ところで、これまで私がこの映画が好きだなと思っていた1番の理由は、最後の強引なハッピーエンドへの持って行き方が新鮮だったからだ。
でも、今回見て、もうちょっとマシなことがわかった。
ちょっと話はずれるけれど、少し前から、私の恋愛観の結構大きな部分を「小さな恋のメロディ」と「卒業」が占めているのではないかと、恥ずかしくてあまり人には言えないような事実に気づいた。具体的に、何というわけではないのだけど、そんな気がした。
で、今回もっとちゃんと気づいた。
この2作ともエンディングは、それまでのいた世界から飛び出していく、のだ。「メロディ」ではトロッコに乗って、「卒業」では路線バスに乗って。
これを、一言で言ってしまうと、本当の「愛」とは制度 or システムの束縛から逃れたところにあるのだ、ってことだ・・・・、多分。
エレーンが言うセリフ。
I love you, but it would never work out.
「愛して言うけれど、それだけじゃきっと上手くいかないわ」
このセリフは、エンディングのためにあるセリフだ。つまり、無理やりこのセリフを否定するのだ。愛していればオーケーなんだと。社会という制度 or システムに取り込まれなければ上手くいくんだ、と
そして、エンディングのエレーンの叫び(冒頭のYouTube参照)。
「ベーーーーーーーン」
エレーン演じるキャサリン・ロスは、ほとんどこのセリフしか印象に残らないような演技だったけど、まるで、このシーンを盛り上げるために他はいい加減にやったんじゃないかと思えるくらいに、この叫びは良い。
そして、10何回目に見た(聞いた)この叫びで、私は初めて気づいたのだ、私の恋愛観が何かということを。
私にとって、愛とは女の人からこの「ベーーーン」という叫びを聞くことだ、と。
つまり、学歴だとか職業だとか経済力とか長男だとかアルコホリックだとか、そういう今いる社会の価値観とは関係なく「私を連れて去ってほしい」と私に向かって叫んでほしいのだ。
残念ながら、私はそういう叫びを聞かなかった、いや、もしかしたら、聞いたのかもしれないけれど、私自身が制度 or システムに絡め取られているから気づかなかったのかもしれない。
長いから、多分ここまで読んでいる人はいないだろうなぁ、と思いながら少し恥ずかしいことも書いてみた。
最後に、豆知識。あの「ジョーズ」や「未知との遭遇」のリチャード・ドレイファスが、べんが泊まっている宿に住む学生というチョイ役で出ている。若い。
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